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今、宗門の中に若手坊主の有志で編成した「邪義破折班」というのが有るようだが、かつて、浅井昭衛氏が「最後に申すべき事」と題した諌暁書を六十七代を継いだ悪僧阿部日顕管長に奏呈したことがあった。
この諌暁書を奏呈する前に、浅井氏が悪僧日顕管長に法論を申し込んだのだが、悪僧日顕は浅井氏にやっつけられる事を夢に見たか、恐ろしさの余り法論から逃げ回った挙句、だんまりを決め込んだ末に例の若手坊主を扇動して「最後に申すべき事を砕破す」を書かせ、未だに逃げ回っている有様だ。
日蓮正宗の法論について歴史を紐解くまでもないが、かつて日蓮正宗第五十二世の日霑上人は、田中巴之助、後の国柱会、田中智学と日蓮正宗との間で行われた法論、あの有名な横浜問答では日霑上人御自ら法論の主席を務められているのである。
ところが、あの悪坊主日顕ときたら浅井昭衛氏にはてんで歯が立たないことを先刻ご承知なのだ。それは、宗門と学会が共謀して正本堂を指して「事壇」と偽った。その教義歪曲を糾すべく、当時妙信講の浅井氏が、一人立たれて大聖人の御遺命を護りぬく正義の闘いが繰り広げられていた。
その御遺命守護の闘いの席には、池田大作の走狗として、いつも厚顔無知な姿を晒し、口をして鼻の如く閉口頓首していたのは、他でもい当時の阿部信雄(教学部長)だったのである。
後年、妙信講の頸を刎ねてからというものは、阿部信雄は、卑劣な言葉を並べて浅井氏との法論を逃げ回っているのだ。云く「部外者との法論などできるものか」というもの。
日蓮正宗の立場を慮る訳ではないが、こんな臆病風に吹かれた体たらくで何が広宣流布なのだ。仮に、大聖人の打ち立てられた三大秘法の広宣流布を標榜する宗門であるなら、世の中の一切の邪宗・邪義と雌雄を決する戦いを展開しなければ、広宣流布なぞ有り得ないのである。
それを卑怯にも己は逃げ回った挙句、邪義破折班なる出来の悪い若僧たちに号令をかけ、浅井氏の書いた「最後に申すべき事」に対する反論をやらせているが、この反論そのものが実になってはいない。邪義に邪義を重ねた揚げ足取りの満艦飾そのもので宗門教学も地に落ちたものだ。いずれ、拙者がこの「砕破す」を砕破して御覧に入れようと思う。
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